エッセイ

遠回りのすすめ #1

 そもそも遠回りをすることは、大手を振って言うほど良いものなのだろうか。

2020年、8月も終わりを迎える頃、勉学に勤しんでいるという免罪符を盛大に振りかざしながら、私という男は引きこもりの限りを尽くしている。猛烈な暑さに晒されず、エアコンの音に耳を澄ましながら、ただひたすらに机とトイレを行き来する生活。正直、私は飽きを通り越して恐怖すら感じていた。いつまでこんな生活が続くのだろう、このままニートになったらどうしよう、明日のごはん何にしよう、等等等、漠然とした未来への不安は私の心を一日一日、ぽつぽつと濁らせ続け、ニート化への準備が着々と進められていた。

そんな折、このエッセイを書くことが決まったのである。

 エッセイを書くに当たり、最初に浮かんだのは「そもそも遠回りって言うほど良いもんなのか?」という疑問だった。これはコンテンツの名目を潰しかねない疑問だ。

 なぜ批判的な疑問が浮かんだのだろうと、自分でも不思議だった。遠回りの楽しみ方は理解できるのに、遠回りという言葉を素直に良いもんだとも思えなかった。

 私は疑問の理由を探すことにした。

振り返ってみると、遠回りという言葉に対して私はネガティブな印象を持っていた。

遠回り、かけなくても良い手数をかけること、22年の短い人生の中で、私はこの言葉に苦しめられてきたように感じていたからだ。

小さいころから手際が悪く、みんなが簡単にできるような事でも逐一時間がかかっていた。それに加えて、何事も人を真似ず、自分で考えたやり方を通すという謎のこだわりが強かったからか、周囲の人からよく、やることが遅い、手間をかけ過ぎだなんて言われたりしていた。他人の言うことなど気にしなければ良い話だったかもしれない。しかし、そう割り切れるほど、私の心は強くはなかった。

私は数年前まで工業高専というちょっとニッチな学校に通っていた。そこは、15歳から5年間、工学に関する専門的な知識と経験をみっちり学ぶという、高校に専門学校がくっついたような学校なのだが、授業のスピードも量も普通校の日にならないほどのものだった。

簡単に言ってしまえば、私はその学校で挫折をした。私のこだわりはまるで通用せず、グループで行う授業でも足手まといになることが多かった。周囲からの批判も多かった。

それが怖くて、人の真似をしなければ仕方がない、人と違うことをすることが出来なくなり、自信もなくなっていった。

そして、私のこだわりによって消えていく時間は、学校生活の中で無駄なものと考えるようになった。

この過去こそが、冒頭の疑問が浮かんだ理由だった。「効率的に」、「合理的に」が大正解だった学校において、遠回りをしようとする私のこだわりは邪魔なものになっていた。

疑問の解消されたのと同時に、ディーター・マガジンで記事を書いていい人間ではないのではないだろうかという疑心感が沸々と湧いてきていた。

しかし、過去を振り返ったことで、気づけたことがある。

これまで過ごした学校生活は、私にとって良い意味で遠回りだったのだ。

結局のところ、人の真似をしたところで、学校生活が上手くいったということもなかった。それでも、どうにかこうにか高専を卒業し、今、私は希望した進路に進めている。

学校生活で感じていた葛藤や経験があればこそ、このエッセイを書くことが出来ている。無駄なものだと切り捨てたこだわりですら、創造することに欠かせないものなのだ。

所詮、結果論だと言えばそうに違いない。しかし、結果的に、迷いながら、足の進むままに通ってきた道の中で、たくさんのことに出会い、たくさんのことを感じ、たくさんの楽しみ方を知ることが出来たと、今なら言える。

これを良い遠回りだったと言えることが、うれしくて仕方がなかった。

「遠回りって言うほど良いものなの?」

自分自身の疑問に、私は「通ってみなければわからない」と答える。

わからないことが、遠回りの楽しさなのだろう。

きっと誰もが、理想的な未来へ向かって、近道や寄り道、時にまわり道を繰り返している。

歩いているとき、自分がたどり着く未来に不安も迷いもある。正しい道なのか、進路を間違ったのかさえ見当もつかないものである。

しかし、道のりが遠回りだったとしても、その道でかけがえのない宝物に出会えるかもしれない。それだけは確かなことである。

hanabusa ryoma